有村稲子サマの足跡
来歴・人物
父が共産主義者だったため官憲に追われ、見かねた祖母が4歳の盛子を韓国・釜山にいる父の実姉の下に連れて行く。伯母夫婦は子供がいなかったため養女となる。養母(伯母)中西かねは1916年から1926年にかけて有馬稲子(旧字体:有馬稻子)の芸名で宝塚歌劇団に在団していた経歴があり、退団後は藤間流の名取りで日本舞踊を教えていた。養母から踊りを習う。釜山公立高等女学校入学。終戦後引き揚げ、1945年秋大阪府立夕陽丘高等女学校編入。
1948年、宝塚音楽学校入学。1949年、宝塚歌劇団36期生として宝塚歌劇団入団。入団するまで養母が宝塚にいたことは知らなかった。二代目有馬稲子を襲名。この芸名は百人一首の大弐三位の「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」に由来する。在団期間は短かったが、娘役トップスターとして活躍。在団中の1951年、東宝『寳塚夫人(宝塚夫人)』で映画デビュー。同年7月、『せきれいの曲』で映画初主演。
1953年、自身が男役を演じた際の違和感から映画に興味が転じ、宝塚歌劇団を退団し東宝の専属女優となる。1954年には岸惠子・久我美子らと共に「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立。以降、岸・久我との半世紀にわたる友情は有名。自ら出演作を決めたりする活発な活動は、「ゴテネコ」とも揶揄された。
1955年に松竹に移籍する。同様に東宝から移籍してきた岡田茉莉子と共に松竹の二枚看板として大活躍した。
1960年3月30日、ヨーロッパ旅行に出発。同5月15日、約1ヶ月半ぶりに日本に帰国。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なヨーロッパ訪問となった。
1961年11月27日、俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)と挙式。披露宴の招待客は約1000人以上、用意されたウェディングケーキは高さ2メートルで当時の値段で16万円、と日本映画界を代表するトップスター同士の結婚にふさわしい、当時としては破格の豪華結婚式だった。また、2人の結婚を祝して「有馬錦」という銘柄のお酒も造られた。しかし、約3年7ヶ月後に離婚。1969年には実業家・河村三郎と再婚するも、1983年に離婚。
1965年、負債による「文芸プロダクションにんじんくらぶ」の解散以後は、主に舞台とテレビドラマを中心に活躍している。 自身の著書『バラと痛恨の日々』(1995年)などで、初婚前にとある映画監督と不倫関係にあったことを告白している。2010年4月、『私の履歴書』(「日本経済新聞」)でもこの不倫と堕胎について触れ、赤裸々な連載が話題となった。
